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Wednesday, December 16, 2020

あまりに長かった「あと1年」引退決断5選手の胸中 - 東京五輪・パラリンピック300回連載 - 五輪コラム - ニッカンスポーツ

angkutandariberita.blogspot.com

東京オリンピック(五輪)が1年延期されたことにより、五輪を断念した選手がいる。伸び盛りの選手なら「準備期間が延びた」と前向きにとらえることができても、ベテラン選手にとって、1年という時間はあまりに長かった。リオデジャネイロ五輪金メダリストのバドミントン女子の高橋礼華さん(30)ら、五輪延期を受けて引退など決意した5人の元アスリートの心境に迫った。

女子バドミントン複リオ金 高橋礼華

東京五輪出場選手へ応援メッセージを書いた色紙を手にパワーを送る高橋礼華さん(撮影・菅敏)
東京五輪出場選手へ応援メッセージを書いた色紙を手にパワーを送る高橋礼華さん(撮影・菅敏)

■もう「こっち側」を実感

バドミントン全英オープンから帰国し、自宅で隔離期間中の3月24日に、女子ダブルス日本代表だった高橋さんは東京五輪延期の報を聞いた。その瞬間、戦うためのモチベーションがぷつりと切れた。「『もう、いいかな。私、頑張ったもんな』と。決して落ち込んだわけではないけれど、延期の知らせを聞いてすぐ引退を考え出した」。若手選手ならともかく、準備期間が延びたと解釈することはできなかった。

数週間たった後に両親に電話で心境を打ち明け、気持ちを固めた。6月、所属先での全体練習が再開した初日、久しぶりにコートで汗を流しても決意が変わらないことを確認。翌日の練習前、パートナーの松友とタクシーで偶然2人きりになったとき、引退の意思を伝えた。

16年リオデジャネイロ五輪で金メダルを獲得。バドミントンでは日本選手初の快挙だった。「前回が銀メダルや銅メダルならまた違ったかもしれないけれど、もうやり尽くしたなと。後悔はない」。すがすがしい気持ちだった。世の中がコロナによってこういう状況になっていなければ…といった思いは一切なかった。「運命というと大げさかもしれないけれど。もともと東京五輪が予定されていた今年8月に、出場できなければ5月末でやめようと思っていたので」。すべてをありのままに受け入れた。

8月の引退会見から数カ月がたったが、現役を退いたことを実感するようになったのは最近だという。久しぶりに代表選手と話をしたときに、「私は今は選手じゃないんだな。もう、“こっち側”なのかと感じた」と笑う。新しい生活も軌道に乗ってきた。今は講習会などで日本各地を飛び回り、充実した日々を送っている。後輩たちへのエールを、と向けられると、少し考え、伸びやかな文字で色紙にしたためた。目標に向かって-。【奥岡幹浩】

リオデジャネイロ五輪バトミントン女子ダブルス決勝 ショットを放つ高橋礼華(奥)手前は松友美佐紀
リオデジャネイロ五輪バトミントン女子ダブルス決勝 ショットを放つ高橋礼華(奥)手前は松友美佐紀

◆高橋礼華(たかはし・あやか)1990年(平2)4月19日、奈良県生まれ。聖ウルスラ学院英智高から09年日本ユニシス入り。高校時代から1学年後輩の松友美佐紀とペアを組み、14年10月に日本勢初の世界ランキング1位に輝いた。16年リオ五輪で金メダルを獲得。今年8月に引退会見を行った。ダブルス元日本代表。身長165センチ。

女子バスケ・リオ8強 大崎佑圭

長女の永稀(えま)ちゃんと笑顔でツーショットの元バスケットボール女子日本代表の大崎(撮影・奥岡幹浩)
長女の永稀(えま)ちゃんと笑顔でツーショットの元バスケットボール女子日本代表の大崎(撮影・奥岡幹浩)

■産後復帰への道示す

まもなく2歳になる長女永稀(えま)ちゃんと一緒に、バスケットボール女子元日本代表の大崎佑圭さん(30)は取材場所に現れた。優しいまなざしで愛娘に目を配りつつ、質問に丁寧に答える。引退決断について話題が及ぶと、視線を前に向け直してこう言った。「もし過去に戻って選び直すことができたとしても、今回のオリンピックは諦める決断を選んだ」。

攻守で日本代表をけん引し、Wリーグでも強豪チームで活躍してきた。妊娠を機に競技から離れていたが、出産後、東京五輪を目指し復帰を決意。育児とバスケを両立すべく、Wリーグのチームに在籍しない異例の“無所属”選手として代表入りを目指した。

練習場所の体育館を自分で確保したり、ジムに通ったりしながら個人トレーニングに励んだ。昨秋には“トライアウト”の立場として代表合宿に久々に参加し、今年2月の五輪最終予選では日本代表として全3試合に出場した。12人の五輪登録メンバー入りへ「いい1歩を踏み出せた自信はあった」。

手応えを感じていながらも東京五輪の開催延期により、引退の意思を固めた。「もともと半年間の短期集中という計画だった。1年延期となれば、話は変わる」。子供に負担はかけられない。保育費やジム代などすべて自己負担で、経済面の負担も大きかった。

「志半ば」で去ることにはなったが、女性アスリートに産後復帰の選択肢があることを示した。バスケ界だけでなく、スポーツ界にとって意義ある挑戦だった。【奥岡幹浩】

バスケットボール女子日本代表合宿練習中の大崎佑圭(2020年1月22日撮影)
バスケットボール女子日本代表合宿練習中の大崎佑圭(2020年1月22日撮影)

◆大崎佑圭(おおさき・ゆか)1990年(平2)4月3日、東京都生まれ。旧姓・間宮。東京成徳大高から09年にJOMO(のちにJX-ENEOS、現ENEOS)入りして10連覇。日本代表としては13、15、17年のアジア選手権3連覇や、16年にはリオ五輪8強入りに貢献した。16年に結婚し、18年に長女を出産。身長185センチ。

女子バレー・ロンドン銅 新鍋理沙

引退理由を説明するバレーボール女子代表の新鍋理沙(SAGA久光スプリングス株式会社提供)
引退理由を説明するバレーボール女子代表の新鍋理沙(SAGA久光スプリングス株式会社提供)

■ケガ右腕不安拭えず

バレーボール元女子日本代表で12年ロンドン五輪銅メダリストの新鍋理沙さん(30)の表情には、後悔の色は全くなかった。右腕のけがと向き合いながら、来夏の東京五輪で納得のいくプレーができるかどうかと悩んだ末に引退を決めた。今ではVリーグの解説を通じて、メダル獲得を目指す代表候補たちの姿を追い掛けている。

引退から5カ月余りで生活は激変した。解説者として試合会場入りし、現役時代とは違う視点で試合を観戦している。「最近、久々にボールに触れたんですが、少しスパイクを打ったら肩が上がらなくなって(笑い)」。頬を緩ませうれしそうに語る口ぶりは、第2の人生を歩み始めた充実感でいっぱいだ。

東京五輪1年延期が決まったことについて「私にとって1年はとても長かったです」。春先に右手人さし指を手術後、リハビリ生活する中で「けが前のプレーに戻れるかという不安が拭えませんでした」。誰にも相談せず、惜しまれつつコートを去った。

当初は無責任な決断だったかとモヤモヤすることもあったが、五輪延期を受けて引退を決めたバドミントン女子の高橋礼華さんとの対談が転機に。同じ境遇をたどった者同士で、抱えていた葛藤や悩みを共有することで前向きになれた。

12年ロンドン五輪以来のメダル獲得を目指す仲間たちの活躍を生で見たいが「自国開催のオリンピックはドキドキが止まらないと思うので」と会場に足を運ぶのは遠慮するつもりだ。陰ながら見守りつつ、心の底から願う。選手たちがけがなく、ベストコンディションで大会に入ってほしいと。【平山連】

バレーボール女子日本代表合宿 練習する新鍋理沙(2018年4月17日撮影)
バレーボール女子日本代表合宿 練習する新鍋理沙(2018年4月17日撮影)

◆新鍋理沙(しんなべ・りさ) 1990年(平2)7月11日、鹿児島県霧島市生まれ。宮崎・延岡学園高卒業後、久光製薬スプリングス(現・久光スプリングス)に入団。22歳と当時最年少で代表入りした12年ロンドン五輪では、28年ぶりのメダル獲得に貢献。中田久美監督の下では、安定感のあるサーブレシーブで代表に欠かせない存在に。今年6月末に引退したが、解説者などで競技に携わっている。身長175センチ。

トランポリン北京4位 外村哲也

元トランポリン日本代表の外村哲也さん(撮影・阿部健吾)
元トランポリン日本代表の外村哲也さん(撮影・阿部健吾)

■支援見合う貢献厳しく

トランポリン男子で08年北京五輪4位の外村哲也さん(36)が引退を決断したのは6月。「お金に見合った貢献がコロナ禍の1年でできるのか。実現が難しいと思った」と道を決めた。貢献の先は、所属先の不動産企業「アムス・インターナショナル」を主としたスポンサー企業。選手とスポンサーの関係の意味を誠実に見つめた結果だった。

「応援したいという気持ちをいただく、恵んでもらっているという感覚が強かった」。13年から社員採用してもらった。16年リオ五輪出場を逃した後も、支えてもらった。ただ、常に考えていた。「アスリートの価値とは何か。その対価をお返しできていない」と。

東京五輪の可能性は「1%」ながら、芽はあった。それでも、1年先は考えられなかった。体力、日本代表活動の束縛、収益源の確保などを鑑み、「やりたい競技生活を送れない。それは失礼」と退社を決めた。

価値を考えるきっかけは、12年ロンドン五輪出場を逃した時。当時の所属先から、選考会で落選したその日に契約解除された。自分が何を提供できるのか、その後に自ら支援先探しをする中で考え抜いた。父康二さんは84年ロサンゼルス五輪体操の銅メダリスト。物心ついた時から「五輪=人生」だった。この出来事で「五輪の先」の将来を考えるようになった。

「現役に未練はない。五輪の頂点という形でなくても、僕の夢は続いています」。今はトランポリンの普及が、人生の夢だという。ビジネススクールに通い、知識を学ぶ。「五輪は夢を表現する1つの手段でした。貴重な経験もさせてもらい、学んだことを伝えることもしていきたい」と、五輪の先を生きる。【阿部健吾】

◆外村哲也(そとむら・てつや)1984年(昭59)10月9日、東京都生まれ。日体大体育学部卒。体操の調整でトランポリンを跳んでいたが、小4から競技に転向。05年世界選手権個人銅メダル、11年同選手権団体優勝など。08年北京五輪で日本人最高位の4位。国際大会に64回出場し計36個のメダルを獲得。

7人制ラグビー・リオ4位 桑水流裕策

ボールを追う桑水流裕策(日本ラグビー協会提供)
ボールを追う桑水流裕策(日本ラグビー協会提供)

■35歳の年齢向き合い

1年の壁は高かった-。ラグビー7人制男子元日本代表の桑水流(くわずる)裕策(35=コカ・コーラ)は、苦渋の決断を下した。

10年以上日本代表をけん引した“ミスターセブンズ”は、自宅待機期間だった今年4月末に引退を決意した。1カ月以上悩んだ末、出した答えは「五輪断念」だった。「(五輪が1年3カ月後となり)目の前のボールが見えないところに行ってしまった感じだった…。35歳という年齢と自分自身と向き合い、21年には切り替えられなかった」。

16年リオデジャネイロ五輪では主将を務めた。全6試合に先発し、愚直な献身的なプレーで体を張り続けた。1次リーグで優勝候補のニュージーランドなどを撃破。4位入賞の快挙を成し遂げ、国内外に大きな感動を呼んだ。

完全燃焼したリオ五輪後に代表を引退。15人制に専念していたが、昨年7月にあと1歩及ばなかったメダルへの思いが強くなり代表復帰した。「メダルを取って15人制との格差をなくし、マイナーな7人制の環境を変えたかった」。19年W杯日本大会で初の8強入りした日本代表の活躍も大きな刺激になった。「20年は7人制の番だ」と気持ちを奮い起こした。心身ともに万全な状態で今年7月の大舞台に臨むはずだった。

しかし、予想外の形で2度目の挑戦を終えた。15人制で競技を続ける桑水流は最後にこう言った。「自分たちを信じることが、成功の近道になるはず」。35歳の元闘将は、後輩たちにメダル獲得の夢を託した。【峯岸佑樹】

◆桑水流裕策(くわずる・ゆうさく)1985年(昭60)10月23日、鹿児島県生まれ。鹿児島工でラグビーを始める。福岡大2年時に7人制日本代表に初選出。08年にコカ・コーラに入社。ポジションはフランカー。今年1月に7人制女子「ナナイロプリズム福岡」の監督に就任。趣味はキャンプ。家族は妻と3男。188センチ、102キロ。

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